アルカン 人物紹介

alkan1まれ、および時代背景

Charles-Valentin Morhange (後に父の名 Alkan Morhange から Charles-Valentin Alkan を名乗る) は、パリに生まれ、パリに没したユダヤ系フランス人である。1813年の11月30日に、モランジュ家の長男としてこの世に生を受けた。この時点で姉が1人おり、後に4人の弟が生まれたため、6人兄弟の2番目の子ということになる。父親がすぐれた音楽教育者であったこともあり、兄弟は揃って音楽への才能を示したが、その中でも傑出していたのが、この長男だった。幼少にしてその能力は開花し、6歳にしてパリ音楽院に入学、わずか1年半後にはソルフェージュのクラスで一等賞を獲得したという。その後も、ピアノ、和声、およびオルガンの各クラスで一等賞を獲っている。

彼が青年時代を過ごした頃のパリは、ロマン派の潮流が新たな芸術の空気を運んでくる、その真っ只中にあった。1830年のショパンのデビュー、1831年のベルリオーズの幻想交響曲の初演、パガニーニの熱狂などなど。すでに楽譜が出版され、ピアニスト/作曲家としての道を着実に歩み始めていた若きアルカンも、その潮流とともに歩んでいたのである。

ョパンらとの親交もあった若き日々

ショパン、リストらとの親交もあった。ショパンは、数少ない友人の上位にアルカンを位置づけていた。1838年3月3日に行われたコンサートでは、ジメルマン、グートマンを加えた4人で、ベートーヴェンの交響曲第7番の8手のためのピアノ編曲を共に演奏したという記録も残っている。晩年、病床にあったショパンを見舞った僅かな人間の中にもアルカンは名を連ねており、未完成のピアノ教則本を託されることにもなった。

リストがアルカンを高く評価していたことは、アルカンの作品をたいへん好意的に評した雑誌記事が残っている事実から明らかである。また、自ら設立したジュネーヴ音楽院のポストが空いた際には、後任をアルカンに頼もうと話を持ちかけた(アルカンはこの話を断っているが)。アレクサンドル・ド・ベルタによれば、初めて聴いたリストの卓越した演奏技巧に打ちのめされたアルカンは、あまりの悔しさから一旦はリストのことを敵視するほどだったが、やがてふたりは認め合い、良き友人になったという。この友情は生涯続き、リストは、パリに滞在した折には必ずアルカンのもとを訪ねていた。

1839年には、アルカン唯一の子とされる男子、 Elie Miriam Delaborde が生まれている。彼については、私生児であるということのほかあまり多くは知られていない。アルカンは生涯を通じて独身であったし、女性との恋愛関係についての直接的な手がかりも残されていない。

意、そして隠遁へ

1848年、ジメルマンが退官し、パリ音楽院のピアノ科教授長の座が空く。ジメルマン最愛の、そして最良の弟子であったアルカンがそのポストにつくことは、はじめのうちは自明に見えた。しかし、最終的には、音楽院の学長に取り入ったマルモンテルがその座を射止めることとなる。アルカンはひどい失望を味わったことだろう。この騒動の最中に、心境を綴ったジョルジュ・サンド宛ての手紙がいくつも残されている。マルモンテルは1887年まで教授を勤め上げ、後年にはドビュッシーにレッスンをつけたこともあった。もしも、アルカンが教授になっていれば(本来そうあるべきだったように!)、彼の人生や後の評価は大きく変わっていたかもしれない。

翌1849年には親しかったショパンが死去した。アルカンにとっては精神的な打撃が続く時期となった。彼はこのころから公の場に姿を現さなくなり、実りの少ない個人レッスンで糊口をしのぐ日々が始まる。以降も重要な曲集の出版はあったが、オルレアンの社交場に、同世代の芸術家たちと集った輝かしい日々は、あっという間に遠い思い出と変わってしまったのである。常に居留守を使うほどの人嫌いとなった晩年のアルカンに会うことを許された人間は口を揃えて、彼には極めて独特な雰囲気があった、と証言している。特徴的なユダヤ系の顔立ちと相まって、まるでラビのようだった、と。

年のアルカン

Alkan_tomb

1873年、60歳となったアルカンは、20年以上のブランクを経てコンサートを開いた。以降数回にわたって、バッハ、ベートーヴェン、シューマン、ショパン、そして自作曲などをプログラムに掲げ、彼は聴衆の前に姿を現した。引きこもりがちになって以降、彼が表に出た記録は、このコンサートシリーズだけである。このコンサートも、マネージメントを引き受けていたモランジュ家末弟のギュスターヴの死なども影響してか、1877年には終わりを迎えたとされる。

以降の記録はほとんど残っていない。不世出の音楽家は、1888年3月29日、ひっそりとこの世を去った。情報の少なさたるや、その死因すらなお議論の的となっているほどである。よく広まっており、非常に興味深いが信憑性に欠ける説は、本棚のいちばん上に置かれたユダヤ教の経典を取ろうとしたときに本棚が倒れてきて、アルカンはその下敷きになって死んだ、というものである。しかし、食事の準備中に心臓発作で倒れ、冷たくなっているところを発見された、という説もまたあるのである。

ダヤ教徒としてのアルカンについて

アルカンについて語るとき、どうしても述べておくべきことがある。死因にまつわる伝説を見てもわかる通り、彼が敬虔なユダヤ教徒であった、という事実だ。彼の音楽には、直接、宗教的な題材を扱ったものも多数ある。また、隠遁の日々のたしなみとして聖書を自ら翻訳していたことも知られている。ユダヤ教徒としては例外的なことに、アルカンは新約聖書の翻訳まで試みた。その作業を通して「新約聖書を真に理解するには、ユダヤ人である必要がある、という不思議な印象を受けた」との興味深い意見を残している。また、「もしも、私が自らの人生をはじめからやり直さねばならぬような日が訪れたならば、私は聖書のすべてを音楽へと移し変えてみたいのです。最初の単語から、いちばん最後までのすべてを」との叶わぬ夢を語ったこともある。

失意の日々によって弱められてしまったアルカンの魂は、その夢の一部を実現させるだけの力さえ残していなかった。彼は、もしかすると、そのあたりで誤って「分際をわきまえてしまった」のかもしれない。